つぐみは何の気なしに口にしたのだろう、だからこそその一言があたしには堪えたのだ。
「私、ひとりめの子は女の子がいいな」
がっかり、とも言い表せそうな静かな衝撃。息が詰まり手は強張り声が出なくなる。児童公園のブランコの上、あたしの沈黙はつぐみの発言に余計な重みを持たせてしまった。
「あ」
はっとして顔を上げたつぐみに非はない。それでも。
「……ごめん」
謝るのはあんまりじゃないだろうか。
***
ごめん、と口に出してからその言葉に引っ掛かりを覚えるのに一秒、凍りついたひなたの表情を盗み見るのに二秒、自分のしでかした過ちに気づくのに三秒。
「ちがう、今のはそういうことじゃなくて」
「どういうこと」
「わすれて」
絶対に忘れられないだろうと思う。私も、ひなたも。
その後私は我を忘れたひなたに組み敷かれて衆人環視の中でいろいろされた、というのはもちろん嘘だけど、なんだか妙な雰囲気にはなって、ひなたは照れたのか怒ったのかじゃあと一言で帰っていった。私はカラフルな公園のブランコから立ち上がるタイミングにおおいに悩んだ。
らしくない反撃を食らったのはだから翌日。
「あたし第一志望は女子校にしようかな」
進路希望の紙に、共学か否かの記入欄なんてない。
***
おわり~いつにも増して回りくどい。
無邪気・無意識で酷な人と、中性的で明らかに良い容姿を自覚している苦労人。わりとさいあくな事をいうと、こういう二人には円滑円満にいってほしくないです。
仮タイトル、「明るい家族計画」(嘘(台無し
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私は子供のくせして子供を演じようとする救いようのない馬鹿で、巴月は必死で大人ぶるどうしようもない子供。どっちもどっちのように感じるけど、私のほうが断然たちが悪い。
私は朝一番に学校に行く。校門の前で待ち伏せようかとも考えるけど結局踏み切れなくて教室で時計の秒針を眺め続ける。一人また一人とクラスメイトがやってくる。徐々に白からブルーへと色を変えていく小さな箱に、姿勢のいい見慣れた姿が現れる。私は巴月のそばに駆け寄って、ひとこと、ごめんなさい、と言う。無視なんて出来得ないほど大きく辺りに響き渡る声で、叫ぶ。
そんな光景を、何回も何十回も頭の中でシミュレーションした。そのせいで思考はくっきり冴え、今日はもう一睡もできそうにない。只今明け方四時三十分。
――あたしは嘉歩が好き。
好きな人からの告白だ、嬉しくないわけがない。でも昨日のあの時なにも考えられなくなったのはショックからだった。だって巴月は疲れ切った顔をしていた。諦めたような眼差しを私に向けていた。
今までの煮え切らない駆け引きでも、確かに少しずつ前進していたのだ。暗黙の了解であったその「少しずつ」を巴月は無視した。これから踏んでいくはずだった段階をすっとばした。そんなふうになるまで巴月を傷つけた私はそれを、ずるい、と思ってしまう。なんて理不尽な人間なのだろう。巴月のほうは私の気持ちを知らないのに。
窓の外の空が白んできた。寝返りを繰り返した体にはところどころ鈍い痛みが乗っている。いつからか、巴月のことを考えると息が熱くなる。
(ちゃんと幸せになりたい)
目が覚めて、自分が寝ていたことに驚いた。見ていたはずの夢の内容はもう思い出せない。時計を見上げると七時半を少し回ったところだった。教室にはいまだにあたし一人。ぼうっとしているうちに二度寝してしまったらしい。
性格からして嘉歩は今日一番乗りで学校に来ようとするだろう。その通りになるのが癪だったからあたしは太陽も昇りきらないうちに家を出た。
「根本的な解決になってない……」
「なにが?」
あたしの独り言は瞬時に独り言ではなくなってしまった。なぜかって、返事があったからだ。
「おはよう」
「……おはよ」
嘉歩はいつの間にかあたしの目の前の席に腰を下ろしていた。いつもはひとつにまとめられている髪を今日は下ろしている。校則違反、なんて軽口は寸でのところで押し留めた。
「ずいぶん早いね」
「そっちこそ」
「……いじわる」
「この期に及んでそんなことを言うか」
あたしは自分でも不審になるほど強気だった。散々あたしを痛めつけてきた嘉歩もそれに感づいたらしく滅多に見せない怯えを露わにしている。
「なるほど、人を弄ぶのって相当楽しいんだろうな」
嘉歩は泣きそうな顔であたしの両手を取った。
(ごめん)
晴天が腹立たしかった。わかりやすいドラマよろしく雨でも降っていてくれたほうがよっぽど気が休まったのに。この重苦しい沈黙だって雨音があればまだ紛れたかもしれない。
いつもは服が汚れるからと敬遠している駅前のベンチだけど、いまそんなことを考えている余裕はない。やけに速く見える秒針をひたすら目で追う。頭では腕時計なんて放り投げてしまいたい衝動に駆られているけど、いざ実行したところで何一つ変わらないことも嫌になるほど理解していた。
「なお」
呼びかけるとなおは肩を震わせ繋がれた手の力を強めた。焦点の定まらなかった瞳に驚きとも恐怖ともつかないものが走るのを私はばっちり目撃してしまう。大きな後悔はしばしばこういう取るに足らない出来事による。
私は重い気持ちで口を開いた。ところが声が出ない。瞬きと深呼吸を繰り返してから試みても喉が詰まる。どうしてなんでどうして。自分の潜在意識がそうさせているのか生理的現象なのか、どちらにしてもこんなに酷いことってあるだろうか。私は今この瞬間なお以外のすべてを、そして誰より何より自分自身を心底恨む。
「ちさと、ありがとう」
なおの口が動く、声が滑る。やめてお願い言わないで。願いは受け止められずに消えていく。
「いままですっと」
なおはこれまで聞いたことのない――あるいは私が気付いてあげられなかっただけなのだろうか――穏やかな声色で言うともなしに呟いた。なおと唯一触れ合っているてのひらが圧迫されていく。可能ならこの手を、この腕を切り落としてもいい、なおと離れたくない。
「いや」気付くと私は嗚咽を漏らしていた。「いやだよ、もう毎日会えないんなんて、そんなの耐えられるわけない」
それでも行かないでと懇願することはできない。万事が自分の思い通りに運べると妄信するには私たちは時間を重ね過ぎてしまった。
駅の出入り口が人群れを吐き出す。私もなおも身を強張らせた。緊張を解くのはなおが断然早い。この時差がなかったらきっと私はとうに泣き喚いてなおを困らせていたのだろう。
なおはそれじゃあと立ち上がって私の頬に空いている方の手を当てたけど、私はそれを振り払った。人目なんて気にもならないけど本当に終了してしまうみたいで恐ろしかった。かわりになおの右手をいっしんに握り返す。微笑を崩さないなおの目は痛々しいほどに悲しげな私の祈りを映し出していた。
電光掲示板に示された時刻は目と鼻の先。私はすぐにでもなおを解放してあげなきゃだめなのに、体の末端に込められる力はどんどん増していく。ほら、雨が降り出せばそれを口実に歩み出せるのに。
なおが謝罪の言葉を口にしなかったのがせめてもの救い。さよならと告げられるだけの勇気が、私にはない。
***
そういえば昨日は天気予報を気にかけなかった。自分の心がなににとらわれていたかがよくわかる。
手を繋いだのがどちらからだったかもう忘れてしまった。ちさとは顔を歪めて宙を見つめている。家を出る前はこういう状況になったら最後なんだから笑ってくれと冗談めかして頼むつもりだったけど、よく考えるとその言葉はあまりに無神経だ。あたしはちさとに倣って押し黙るしかなかった。
「なお」
先に沈黙を破ったのはちさとだった。傷だらけになったような、それでいて優しい声。そのときあたしの心を支配した正体不明の感情は申し訳なさだったのかもしれない。あたしは返事にかえてちさとの手を握った。ちさとは苦しそうに何か言いかけて目を見開く。相変わらず口をつぐんだまま怯えているちさとを見ていられなくなったあたしは慌てて切り出した。
「ちさと」
出かかっている涙を懸命にこらえて声を出しながら、そんな真似ができている自分を少し嫌った。
「ありがとう、いままでずっと」
言い切ってみると案外気は紛れた。と同時に後悔に襲われる。ちさとは弾かれたように叫んだ。
「いや。いやだよ、もう毎日会えないんなんて、そんなの耐えられるわけない」
古びたベンチが軋む。あたしを刺すちさとの悲痛な目線にいたたまれなくなって瞼を閉じた。
あたしは今までずっとちさとの器用さに救われてきた。生かされてきたと言い換えてもいい。でも、少し考えればわかることだった、それはちさとも一緒。誰だって外から支えてもらわなければ立っていられない。ちさとの支えとはあたしに自分を器用に見せることだったのだ。あたしもちさとも所詮ただの子供で、真の要領のよさを身に付けることはまだどうしたってできない。
それでも、と思ってしまう。そうだあたしにしてくれた努力を、あと数分でいい、続けてほしかった。それがどれだけ残酷な望みであるかもあたしは知っているけど。
駅から人の群れが出てきたのを見てあたしは立ち上がった。泣きそうなちさとに精一杯の笑顔でそれじゃあと声を掛ける。足は泣けるほど軽い。
キスを拒まれたのは予想通りだった。無理強いはしないとも決めていた。だけどちさとの手の力強さは思いもよらなかった。触れているのはてのひらだけなのにあたしは全身どこも動かせない。駅へ向かわなければならない時刻が近づいているのに、あたしはちさとに手を放してくれと頼むことができなかった。
あたしだって離れ離れになんてなりたくないんだ。でもちさとがいつもの余裕で笑って見送ってくれるなら。そんな甘い期待をしていた。砕け散ったあとのやり切れなさに昨日までのあたしは思い及ばなかったらしい。
ごめんというひとことをやっとのことで押し留める。右手にかかる力は痛みを伴うまでになっていた。またいつかと口に出せる無邪気さが、いま強烈に恋しい。
十行に渡る文章題を見てげんなりとした。まず読んで意味を頭に叩き込むのが億劫でたまらない。飛ばして次の問題に取り掛かってもいいのだけど、いかんせん私は負けず嫌いの上変に真面目なたちなのでそうすることは自分で許せない。気合いを入れなおしてドリルに目を走らせた。
「山岸ちょっと」
そんな私のやる気をいきなり挫けさせたのがこの先生の一声。目で返事をすると同時に呼ばれた理由についても考えたけど特に思い当たることはなかった。
「そこの二人知らないか」
そこ、と示された私の前の席の主は里崎とつぐみちゃんだ。そういえば見ていないなと記憶を辿りながら否定の返事をすると先生はうーんとうなって私にこう言い付けた。
「じゃあ悪いが山岸、保健室とか見てきてくれ」
はいと頷いて立ち上がる。保健室とかの「とか」ってなんですかという質問は私の信条、「基本は愛想よく」によって押し留められた。
あの二人とは知り合って一年半になる。第一印象は「恐ろしく仲がよい」でいまだに変わっていない。いやあの頃よりもその印象が強い点変わったといえるのかもしれないが。
ともかくあの二人の仲良しぶりは親友の範疇を超越している。と、思う。揃って授業をサボったり連れ立ってトイレに行ったりはまだ理解できるとして、膝枕とか林間学校の夜にほぼ密着状態で寝たりとか友達同士でなかなかすることじゃない。もっともそのあらかたはつぐみちゃんが一方的にやっていることだが。
保健室は素通りしておいた。先生もそのために私を使わせたわけじゃない。屋上か前庭、サボリの定番といえばその二箇所のどちらかだ。私は友人としての勘を働かせて屋上へと続く唯一の階段を上った。あの二人はわりと少女趣味なところがある。
はたして勘は的中だ。重い扉を開けると屋上の隅に座り込んでなにか話している二人の姿が目に入った。私は歩き出そうとし、慌てて咄嗟に足を止めた。二人の間を流れる雰囲気がなんとなく今までとは異質に見えたからだ。
よく耳をそばだて目を凝らす。気付かれるかもしれないとひやひやして自然と呼吸も小さくなった。幸運にもというべきか生憎というべきかは測りかねるけど、私は十四年間視力検査はオールAの上授業中教室のどこかでシャープペンの芯の落ちる音を聞き取れる耳の持ち主だ。ここへきて一分も経たないうちに次のような事実を浮かび上がらせることができた。
一、二人は好きあっている。二、時代がかった言い回しをすると二人は「A」まで進展している。三、つぐみちゃんは上記の二項目を私にのみ報告するつもりでいる。
(……ちょっと待った)
難解な図形の問題が物凄く恋しくなった私は、早足で立ち去り教室に妙な気分を持ち帰った。
「キリンさん」と呼ばれていた。長い背丈に長い首、もちろん皮膚に斑模様はついていなかったけど、額に灰色のあざがあった。
彼女の本名は覚えていない。印象に残っているのは「キリンさん」という呼び名だ。はっきりと確認したことは無いけどそれはおそらく好意による愛称ではなかっただろうと思う。キリンさんは奇抜な人ではなかったけどその容姿と言動からクラスメート達には避けられていたし、人に動物に由来した渾名がつく場合、その大抵には悪意や嘲りが込められているものだ。
キリンさんは小学校五年生の秋に私達のクラスに転入して来た。私は転校生というものはドラマなんかでよく目にするとおり、朝の会の始めに先生に名前を呼ばれて前の戸から入ってくるとばかり思っていたのだけどどうやら昨今そういうパターンはほとんど存在しないらしい。
キリンさんはいつのまにか五年四組の教室にいた。自らの複雑な立場を弁えているのか隅の席で膝に手を置き静かに座っていた。みんなはこの転校生という名の他者を持て余しているように見えた。
担任教師は授業に入りかけ、不意に思い出したようにキリンさんを黒板の前へ呼んだ。キリンさんは型どおりの控えめな挨拶と小さなお辞儀を終えると、先生と並ぶくらい無気力かつ投げやりな足取りで席へと戻っていった。
異端者は黙殺せよ。それが五年四組の下した判断だった。
キリンさんには人当たりの柔らかさというものがさらさら感じられなかった。クラスメートが気を利かせ他愛ない質問を振っても一語きりの返事でそっけなくあしらうだけ。
キリンさんが現れて一週間、ようやくみんなも彼女が転校初日におとなしくしていたのは単に誰とも関わりを持ちたくなかったからだったと気付く。途端に誰もが彼女に話しかけることをやめた。つまりこれが彼女を掟破りの村人とした村八分の始まりだったわけである。
ただこの村八分はいじめに発展することはなかった。五年四組の面々の良心がそうさせたのではない。キリンさんはどこか気高くそれでいて屈強な雰囲気を纏っており、集団で遠ざかることはしても個人ではとうてい太刀打ちできそうになかったのだ。
みんなはそれぞれ自分が傷つくことをなにより恐れた。ゆえにキリンさんに直接危害を加えずに済む存在の否定、つまり無視という方法を取ることにしたらしい。でも他人との接触を厭っていた彼女にとってそれは願ったり叶ったりだったわけで、村八分といっていいかすらもあやしかったと今の私は思う。
キリンさんはよく黄色いワンピースを着ていた。それは長身の彼女にとても似合い、しなやかな肢体がよりいっそう目立つデザインで、人目を引く力を持っていた。
クラスメートの一部、とりわけ男子はキリンさんのそんないでたちを喜んでネタにした。結果彼女のキリンさんという渾名が出来たのか、または元からあったそれが広く浸透するきっかけとなったのかは定かでない。
しばらくするとキリンさんは五年四組の当初の筋書きどおり、端から存在などしていなかったかのごとく扱われるようになった。彼女もまたそれに応え苦にしている様子を見せたことはない。担任教師はというとどうやら生徒の目に留まらないところで彼女には煩わされていたようで、その上余計な面倒は抱えたくないと思ったのか特に口出しはしてこなかった。そうしてキリンさんという渾名は学校外で友達同士の話題に彼女が上せられるときにのみ使われるようになった。
私は元来口数が少なくクラスでも地味な部類の人間だったから、みんなよりも更に離れた場所から遠巻きにしているだけだった。それはキリンさんがありふれた転校生の女の子としてクラスに馴染んでいたとしても同じことだったと思う。私は自発的になにかをするのが苦手だ。
私がキリンさんと口を利いたのは一度きり。今にして思えば一度あっただけでも信じられない。
二学期最大の行事、運動会の前日のことだ。クラスごとに準備の仕事が振り分けられており、五年四組では万国旗のセッティングがそうだった。廊下に細いロープを渡し、そこにクラス全員で世界各国の国旗が描かれた布を一枚一枚手作業で結び付けていく。
作業開始から十数分、私がトイレに行くと珍しくグレーのパーカーを羽織ったキリンさんがいた。私は一瞬気まずさを背負いながらも、へんに気を回さず黙っていればいいのだということに思い至り無言で通り過ぎた。ことを終え個室から出ると彼女は今度は出入り口の前でお腹を抱えてうずくまっていた。いよいよ見て見ぬ振りの出来ない状況に追い込まれた私は慌てた声を作って言った。どうしたの、先生呼んでこようか。たったそれだけの言葉で口の中は渇き切り、私はまるで禁忌、いやむしろ聖域にでも触れたような気分になっていた。
そうやって緊張しながらキリンさんの返事を待ったけど彼女はいっこうに口を開こうとしない。それもそのはず、彼女はそのときまさに激しい嘔吐を繰り返していたのだ。その光景を目の当たりにした私は立ち竦み身動きひとつ取れなかった。
そして気付くと私は教室に戻ってきていた。それまでの記憶は今でもなぜかすっぽりと抜け落ちている。朝目覚めてから夢の内容を思い出せないのと似たもどかしさを伴って。
後から聞いた話によるとキリンさんは生まれつき胃を患っていたらしい。そうと知るまで私は彼女が度々体育の授業を見学しているのを単なるサボりだと決め付けていた。
二学期も後半に差し掛かった十月のある日、事件は起こった。
よく晴れた日の朝。キリンさんが普段どおり登校して廊下を歩いていると、「毎日のように黄色いワンピースを見につけている女子がいる」と彼女の噂を聞きつけた上級生の男子二人がふざけ半分で彼女を背後から突き飛ばした。彼女がこの日もあのワンピースを身につけていたのはいうまでもない。
その内面とは対照的にか細いキリンさんの体は勢いよく斜めに倒れこみ、廊下の窓ガラスに衝突した。衝撃を受け割れたガラスは粉々になって四方八方に飛び散った。彼女はガラスにぶつかった弾みで足を滑らせ転倒し、その拍子に目に入ったガラスの破片により角膜を損傷、以後彼女の右目が光を感じることはないのだった。
事件後勃発した被害者側と加害者側の紛糾――法廷まで持ち込んだとか持ち込まないとか――のあらましを私は詳しく知らない。クラス内でそれについては一切追求しないという暗黙の了解があったためだ。
キリンさんは入院し間もなくまた別の学校へと転校していった。このときも彼女のその後を詮索する者はいなかった。転入したときと同じように形ばかりの「お別れの挨拶」をしに五年四組の教室を最後に訪れた日、彼女は確かに黄色い服を着ていたけれどその形状はワンピースではなくTシャツだった。
翌日からの五年四組にさしたる変化は見られなかった。そもそもキリンさんなんて人はいなかったことに今までもこれからもされているのだから、至極当然のことだったのかもしれない。
クラス中から小さなしこりが取れたような、あえて言葉にするなら違和感みたいなものが消えていたのも事実だが。
もう三年も前、しかもたった二ヶ月にも満たない間の出来事だ。今の今まで忘却していたくらいの。
あれ、旭川さん? その声に私は飛び上がるほどの驚きを禁じえなかった。振り返って声を確認する。顔立ちも声ももう記憶の中にはない。それでもこの動物園のキリンの檻の前に佇んでいるその人こそがかつての「キリンさん」だと私は瞬時に悟った。
「私のこと覚えてるの?」
私は聞き返した。真っ先に浮かんだ素朴な疑問だった。だってほんの短期間いただけのクラスで影の薄かった私を、三年経った今でも咄嗟に判別でき名前まで呼ぶなんて。この人は私に何か強い恨みでもあるんだろうかと身構えてしまう。
「知ってる? 旭川さん」彼女――キリンさんは私の問いかけには答えずに続ける。「キリンってね、食べたものを戻すとき目を高速で白黒させるんだって。それから右の後ろ足で地面を強く強く蹴りつける」
私の脳裏を凍りついたおぞましさとともにひとつの記憶が駆け巡った。小学校の薄暗い女子トイレ。そうだ、あのとき私は怖気づいて繰り返し呻いているキリンさんを残して立ち去ったのだ。
長年かかっていた靄が晴れ渡っていくような清涼感を覚えるが早いか、私は途方もない後悔に苛まれていた。どうして今日ここに来てしまったのだろう、どうして彼女と再会せねばならなかったのだろう、こんなこと一生思い出したくなかった。
キリンさんが笑う気配がしたけど、私は下を向き続けていたから真実は分からない。
「今の皮肉じゃないわよ」と彼女が前髪をかきあげた刹那、濁ったあざが覗いた。「ねえ、クラスのみんなどうしてる?」
「どうしてるって聞かれても、ふつうだよ。私立の中学行った子も何人かいるけど、大半は小学校のころと変わらないメンバーで……」
動物園に来てまでこんな話をしている自分がむなしくなった。キリンさんの顔を盗み見る。澄ました面持ちで檻の中のキリンを熱心に見つめていた。
「そうなんだ。私のことたまに話に出たりする?」
キリンさんの右の黒目が私をとらえた。実際にはその瞳には何も映っていないはずだ。なのにどうしてだか私にはそれが真っ赤な嘘に思えて仕方がなかった。彼女は確かに私の強張った顔を見据えている。光を認識できるかどうかなんて問題じゃない、その眼は絶対に私を鋭く貫いている。
「うんあの、たまにね。小学校の思い出話とかするときに」
キリンさんはふうんと鼻を鳴らして微笑んだ。キリンの檻にゆっくりとゆっくりと近づく。その動作は最早、キリンのようなという形容で語るべきではなかった。私にはキリンそのものに、見えた。
「ありがと旭川さん。また会えたらどうぞよろしく」
キリンさんは三年前のぶっきらぼうさからは考えられない満足げな笑顔で言って、もう普通の少女の歩き方で木漏れ日が落ちる道の中へと消えていった。
私は呆然としたまま立ち尽くし、キリンの頭部を仰ぎ見た。全身で重石にのしかかられたようなけだるさがする。キリンは私の遥か上方で悠然と草を食べていた。私にはその草が反吐に見えた。
頭の中の遠く彼方から強烈に眩しい光が射し、ごおんごおんとばかでかい鐘を突き散らす音が響いてくる。私は重い足を引きずりキリンに背を向けた。
キリンさんが今日もあの黄色いワンピースを着ていたことを付け加えると、これは蛇足になる。